昨日の夜、内海唯花はわざわざ結城理仁が帰ってくるのを夜遅くまで待って、土曜日の朝一緒に市場へ野菜を買いに行くことを約束した。昨晩おばあさんに電話をかけて確認し、今日来るお客さんは二つか三つテーブル分必要になることを知った。結城理仁の弟たちも来るからだ。 彼女と結城理仁はもう結婚したのだから、結城家の嫁になった。両親だけでなく結城家の同世代の者たちにも兄嫁に会わせて、お互いを知っておかないといけないとおばあさんは言いたいのだ。 今日買わなければならない食材はとても多く、彼女一人では持って帰ってこられないだろう。それで結城理仁に車を出してもらえば、余分に食材を買っても持って帰る心配はしなくて良いのだ。 あの日と同じように、朝六時に結城理仁は内海唯花のLINE電話に起こされた。 寝起きが特に悪い結城理仁は、もはや修行僧にでもなれるほど本気で耐えては耐え、内海唯花に怒鳴りつけたい気持ちを抑えていた。 「結城さん」 内海唯花の澄んだその声は聞くと非常に心地よかった。 結城理仁は眉間を押さえ、低い声で言った。「あと十分時間をくれ」 「わかりました。今朝食を作っていますから、後で食べてくださいね。食べ終わったら買い物に出かけましょう」 結城理仁「......一体何時に起きたんだ?」 今は朝六時なのに、彼女はもう朝食を準備し終えていた。 「五時過ぎですね」 一人で二、三テーブル分の料理を作るのだから、かなりの時間がかかるため彼女は早起きするしかなかった。そうでないと間に合わないからだ。 結城理仁はそれ以上は何も言わず、黙って電話を切った。 家長に会うことを彼女はとても重要視していた。今日来るのは彼の家族たちだ。彼女のこのような態度に彼はとても満足した。 十分後。 結城理仁は普段着で食卓に現れた。 彼女はまだ食べている途中で彼を見て微笑んで言った。「私が作った味噌汁飲んでみてください。姉はとても美味しいって言ってくれるんですよ」 結城理仁は自分の朝食を見ると、とても美味しそうで食欲をそそられた。彼はせっかく作ったのだからとその朝食を食べてしまった。確かに美味しかった。彼女の料理の腕前は確かなものだ。 彼は本当に美味しいものが食べられて幸せだ。 彼女の手作りの朝食は外で買ってきたものより安心だ。 内海唯
二時間かけて市場を回りようやく帰ってきた。 出かける時は高級車に乗りあまり歩き回らない結城理仁だが、普段体を鍛えているし、武術を嗜んだこともある。しかし、内海唯花と二時間も市場で歩き回り、荷物まで持たされてさすがに疲れ果ててしまった。 まだ処理し終えていない書類や、延々と続く会議をやることになっても、女に付き合ってショッピングや市場を回るのはもうご免だ。 車を止めて、内海唯花が車から降りる前に結城おばあさんから電話がかかってきた。 「唯花ちゃん、あなたたち家にいる?私たちは下にいるわよ」 内海唯花は笑みを浮かべて言った。「おばあちゃん、私たち市場から帰ってきたばかりなの。そこでちょっと待ってて。すぐ行くから」 「あなた理仁くんと一緒に市場へ?」 おばあさんはそれを聞いて楽しそうだった。心の中であのツンツンして偉そうなお孫様が城下町におりて内海唯花と一緒に市場を回るなんて。 彼に一般庶民を演じさせるのもまた良いことだ。彼に普通の人の生活というものを経験させよう。 「うん、買い物に行ってきたの」 「理仁くんは普段仕事で忙しいから、この歳になっても市場を回ったことなんてないのよ。彼を連れてもっと出かけてちょうだい。唯花ちゃん、理仁に荷物を持たせなさい。彼は力があるわ、あなたは疲れないようにね」 結城理仁「ばあちゃん、一体どっちが本当の孫なんだ?」 内海唯花は車を降りて、片手で携帯を持ち電話をしながら、もう片方の手で後部座席のドアを開け、中から折りたたみ式のカートを引っ張り出した。表情で結城理仁にカートを開くように合図した。 「おばあちゃん、安心して、私は全く疲れてないから」 このカートでは買ってきた物を全て入れることはできなかった。彼女が買った野菜や果物はたくさんあって、載せられなかった。残りは結城理仁が手に持つことになり、彼女は最初から最後までとても楽ができ、ちっとも疲れてなんかいなかった。 「おばあちゃん、私たち今からそっちに行くわ」 「わかったわ、後でね」 おばあさんは自分から電話を切った。 内海唯花は携帯をズボンのポケットに押し込み、カートを押しながら両手が塞がっている結城理仁に言った。「結城さん、行きましょう。おばあちゃんたちが下で待っています」 結城理仁と彼女は肩をならべて歩いていった
この光景はなんとも形容し難かった。 「おまえ達よく覚えといてね。私たちの正体を明かさないようにしなさい。唯花ちゃんは何も知らないの。あなた達夫婦二人はあとで退職金はなく家で野菜や花を育ててたまに生活費を稼いでるって言いなさい」 「来る前に言ったことを忘れないでよ。もしぼろでも出したら理仁くんから痛い目に遭わされるわよ。その時は私に助けを求めないでよね」 おばあさんは孫のこの様子が面白いと思い、極力孫が一般人を演じる手助けをしようとしていた。 彼女は内海唯花がとても良い女性で絶対にお金に欲深い人ではないと固く信じていた。彼女の歳なら人を見る目は十分養われているからだ。 「わかった」 皆は低い声で応えた。彼らは内海唯花を全く知らないわけではなかった。内海唯花がおばあさんを助けた後、内海唯花にお礼を言ったのはおばあさんの息子夫婦だった。 結城理仁の母親は特に何も話さなかった。彼女はおばあさんが息子と内海唯花を結婚させることに反対していた。しかし、おばあさんがこの傲慢な息子を説得したものだから、彼女も止めようがなかったのだ。 内海唯花がおばあさんを助けてくれて、結城理仁の母親も彼女に感謝していた。彼ら一家は唯花に感謝を述べ、お礼をしようとしたが、彼女はそれをやんわりと断った。しかし、思いもよらずおばあさんは内海唯花のことを気に入ってしまった。彼女の人柄は非常に優れていると思ったのだ。 それからというもの必死に結城理仁と内海唯花の仲立ちをし、最終的にはおばあさんの望み通りになったわけだ。 結城理仁は内海唯花と結婚手続きをするだけで、あとはじっくりと内海唯花を観察すると言っていた。彼女が本当におばあさんが言うとおりの人物なら、彼は縁組を受け入れこの家庭に腰を据えるつもりだと。 結城理仁の母親は息子が内海唯花と円満に別れることを望んでいた。二人がお互いに性格や習慣など様々な面でうまくいかないと思っていたからだ。 もちろん、おばあさんが賛成しているからこそ、彼女が内海唯花に何かしようとは思っていなかった。自然の成り行きに任せればいいのだ。 「おばあちゃん」 新婚の二人がやってきた。 内海唯花は微笑んでおばあさんに挨拶をした。 そして、結城家の三人の息子とその奥さんたちにも挨拶をした。彼女は彼ら数人には会ったことがあるの
結城蓮は人懐っこい性格で、すぐに内海唯花と楽しそうにおしゃべりし、打ち解けた。 この子は義姉が兄に荷物を運ばせている光景を目の当たりにした後、義姉という虎の大きな威を借りることをはっきりと決めた。彼は今後この虎が彼の後ろ盾になるのだと確信したのだ! 佐々木唯月と佐々木俊介は息子の陽を連れて結城家一行よりも少し遅れて到着した。 妻が他人の高級車に傷をつけ弁償しなければならなかったが、最終的に義妹の夫が車の持ち主と知り合いで、妻は十八万円支払うだけでよくなった。佐々木俊介はまだ会ったことのない相婿を過小評価できなかった。 本来今日の両家の集まりをそこまで重要視していなかった佐々木俊介は心変わりし、結城理仁に会った後、心の中で相婿の風格に驚かされた。彼の会社の社長よりも威厳があり、周りをビクビクさせるような人物だった。 「結城さん」 佐々木俊介は満面の笑みで結城理仁に右手を伸ばした。「はじめまして。私は唯花の義兄の佐々木俊介です」 結城理仁は佐々木俊介と握手を交わして淡々と挨拶した。「はじめまして、結城理仁です」 彼はまた佐々木唯月にも義姉さんと声をかけ挨拶した。 佐々木唯月は妹の夫が素敵な人だとわかった。結婚書類の中にあった写真よりも威厳があり、冷たそうで口数の少ない人のようだったが、彼女はとても満足した。 「陽ちゃん、挨拶しようか」 佐々木唯月は息子に結城理仁に挨拶するように教えた。 佐々木陽は丈夫で素直な子に育っていた。目元は母親ゆずりのようで黒々としてキラキラしていた。瞳をいつもくるくるとさせて周りを見回し無邪気で可愛らしかった。誰でも虜にさせてしまうような魅力のある子だ。 結城理仁は思わず尋ねた。「義姉さん、この子を抱っこしてもいいですか?」 佐々木唯月は微笑んで言った。「もちろんよ」 彼女はまず妹に息子を渡し、内海唯花が甥っ子を抱き上げて結城理仁に抱っこさせた。 佐々木唯月のこの動作に結城理仁は義理の姉を高く買った。とても気遣いができる人だ。それに礼節を知り疑われないようによく気をつけていた。彼が直接子供を抱っこした時に二人が触れ合わないように先に子供を内海唯花へ渡したのだ。 彼と内海唯花は法律上の夫婦だから、触れ合うことは普通のことだった。 佐々木陽は結城理仁に抱えられたまま上へとあがっ
結城理仁は佐々木俊介と交流するのが好きではなかった。佐々木俊介が彼の一番嫌いなタイプであるだけでなく、佐々木俊介の唯月に対する態度が問題だった。 佐々木陽が喉が渇いた時、哺乳瓶の中には水が入っていたし、それは佐々木俊介が座っているテーブルの目の前に置いてあった。彼は動く必要もなく簡単に哺乳瓶に手が届く場所にいたのに、佐々木唯月をわざわざ呼んで息子に水を飲まさせたのだ。 今日はお互い初めて会った日だ。結城理仁の鋭い眼光から見てみれば、この相婿は家で佐々木唯月という妻の存在を全く眼中に置いておらず、しかも佐々木唯月が家で子供の面倒を見ているだけで楽なことだと思っているようだった。 結城家の家風、結城家の家訓が身に染みている結城理仁にとってみれば、このような妻を尊重しないクズ男は大嫌いだったのだ。 彼と内海唯花はいわゆるスピート結婚で、結婚手続きをする時に初めて顔を合わせた。全くの感情がないと言ってもいいが、彼は内海唯花を妻としてやはり尊重していたのだ。 内海唯花は彼がこう言うのを聞いて笑った。「気が合わないようなら必要ないですね」 「三男はおしゃべりなんだ。あいつがいれば義姉さんの旦那と交流してくれる。彼が俺たちを冷たい一家だと思うこともないだろう」 結城家の三番目の坊ちゃんは優しそうな顔をしているが内心は陰険な人間だ。誰とでもコミュニケーションをとることができ、会話中にも腹黒いことを考えていた。 「じゃあ、ちょっとお手伝いしてもらおうかな」 結城理仁は何も言わず、彼女の手伝いを開始した。 新婚夫婦がキッチンで一緒に準備しているのに両家の家長は非常に満足していた。 佐々木唯月は妹の夫がとても妹を大事にしてくれていると感じた。 食事の時、皆は内海唯花の料理の腕を絶賛した。 おそらく山海の珍味を普段食べ慣れているせいだろう。内海唯花が作った家庭料理が特別に美味しく感じられたのだ。 とても賑やかな一日だった。夕方、両家は夕食を食べ終わってから次々と帰っていった。この小さな家庭がまたいつものように静かになった。 内海唯花は部屋に戻ると、ソファに倒れこみ横になった。そして後ろに続けて入ってきた男性に言った。「もう立ち上がれないです」 結城理仁は何も言わなかった。 内海唯花はこのように言ってみたものの、別に彼からね
「結城さん、私がやりますよ」 内海唯花は彼にそこをどくように目配せした。 結城理仁は少し黙り、その場を譲った。そしてエプロンを外すと内海唯花に渡した。 しかし彼はキッチンから出て行かず、彼女の側に立って内海唯花が食器を洗うのを見ながら言った。「次食事会があったら、ホテルに食べに行こう。手間がかからないだろ」 「はい」 内海唯花は特に意見はなかった。今日は両家の家長が会う日だったので彼女もおばあさんたち家族にお披露目する意味でも家でご飯を作ったのだ。 「ばあちゃん、君に何か言っていたか?」 結城理仁は突然尋ねた。 内海唯花は一旦手を止め、彼のほうを見た。 結城理仁も彼女を見つめ、夫婦二人はお互いに目を合わせた。結城理仁は彼女のまなざしから少し自分をからかっているのが見て取れ、彼女の言葉を聞いた。「おばちゃんが私たちが別々の部屋で寝てるんじゃないか?って。私たちは結婚したのだから私にもっと大胆になって、自分からあなたを押し倒して服を脱がせて、その、やっちゃいなさいと」 結城理仁「......」 こんなセリフを彼のおばあさんは吐けるのだ。 「それから、来年女の子のひ孫を抱かせてほしいと言ってました。特に強調して女の子のひ孫をって。もし女の子が生まれなかったら、女の子が生まれるまで産めだそうです。女の子が生まれれば報酬を出すって。おばあさんが一生かけて蓄えたものを全て私にくれるとか」 結城理仁「......」 彼のおばあさんの一生分の蓄えは数百億に達していた。 このおばあさんは本当に内海唯花というこの孫息子の嫁を重視しているようだ。 「あなたのおじいさまは女の子がいなかったのですか?」 結城理仁は首を左右に振り否定して言った。「俺の曾祖父さんにはたった一人だけ女の子がいたんだ。曾祖父さんの妹だ。だけど五歳になる前に他界してしまった。それから何代にもわたって女の子は生まれていない」 彼の代は男従兄弟九人だ。 内海唯花は引き続き皿洗いをしながら笑って言った。「なるほどおばあちゃんがあんなに気前が良い訳ですね。おばあちゃんの一生の蓄えを私にくれるだなんて。本来そんなことは出世するよりも難しいことですよ」 彼女のこの言葉を結城理仁は深読みしすぎた。彼女の化けの皮がようやく剥がれたと思ったのだ。なるほど、
申し訳ないことに、夫婦の仲はまだそれほど良くはなっていないのだ。 彼らはどのみちルームメイト的な関係で一緒に生活するのだ。彼が彼女に対して天地が荒れ狂うほど怒りを爆発させたとしても、彼が彼女をここから追い出さない限り、彼女にとってはどうでもいいことだった。 内海唯花は食器を洗い終わり、キッチンをきれいに片付けてから他の部屋ももう一度整理整頓した。最後にあのベランダにある彼女が買ってきたハンモックチェアに腰掛けた。ゆっくりと夜風の涼しい風に吹かれ、チェアを揺らした。それに内海唯花はとても満足した。 彼女のベランダは小さな花の庭園のようで、花たちがすくすくと育っているのを眺め、内海唯花が改めて結城理仁の仕事に感心してため息をついたのは言うまでもないだろう。 ゆっくりと落ち着いた足音が聞こえ、ベランダのほうにやってきた。 すぐに結城理仁がベランダに現れ、内海唯花がハンモックチェアに揺られて満足げに気持ち良さそうにしているのを見た。結城理仁の顔はさらにこわばった。 彼は近づいてくると、二枚の紙を彼女に渡した。 「なんですか?」 内海唯花は興味津津に尋ねた。 結城理仁は何も言わなかった。つまり見ればわかる、他に何か聞くことがあるのかという意味だった。 二枚の紙を受け取り、内海唯花は書かれている内容を確認した。それはなんと合意書だった。彼が二枚印刷していたのは彼に一枚、彼女に一枚ずつということだ。 彼の名前はもうサインしてあり、押印も済ませてあった。 あら、とても本格的じゃないの。 内海唯花はつま先で地面をトントンと叩き、ハンモックチェアをもう一度揺らし始めた。彼女は椅子にもたれかかり、結城理仁が作った合意書を真剣にまじまじと読んだ。 合意書は紙いっぱいに書かれてあった。 内海唯花は重要な箇所だけを覚えた。彼らは今なんの感情もなく名義上の夫婦だ。彼の体によからぬ妄想を抱くな。はっきりと言えば、別々の部屋で寝て、夫婦らしいことはしないということだ。 それから半年以内に、二人がやはりなんの感情も抱けなかったら離婚すること。彼は今住んでいるこの家を喜んで彼女に譲渡し、あのホンダの車も一緒に彼女に贈るということだ。 他のことは特になかった。特に強調してあったのは彼女がおばあさんの私産に手を出すなということだった。こ
内海唯花はペンを受け取ると、立ち上がってベランダの手すりまで行き、レンガの台を使って合意書にサインをした。 結城理仁は朱肉を持ってきて彼女に拇印させた。 二枚ある合意書は夫婦それぞれに一枚ずつだ。 内海唯花は適当にその合意書を折りたたむと、ズボンのポケットにしまいこんだ。 結城理仁は彼女のこのどうでもいいような態度を見て、瞬間心が少し塞いだ気がしたが、何も言えなかった。彼が自分で作成した合意書だ。合意書に書いてある要求はほとんどが彼女に向けて書かれたもので、彼女を用心するためのものだった。しかし彼女はその同意書に一切何も書き加えなかった。 「今日一日疲れましたよね。早く休んでくださいね」 「君もな」 内海唯花は笑って言った。「私はもうちょっとここで花を見ています。私にはずっと夢があったんです。小さなフラワーガーデンのようなベランダ。今はもう実現しちゃいました。とても気に入っているんです。 少しも合意書のことなど気にしていなかった。 彼と結婚して、まさか本当に何も企んでいないのか?全ては彼の思い過ごしだったのか? そうでなければ、どうして彼女がこんなに悟ったように、怒りも騒ぎもせずに笑っていられるのだ。 結城理仁は静かにしばらく彼女を見つめ、後ろを向いて去っていった。 すぐに彼は車の鍵を取り家を出て行こうとした。 内海唯花はベランダから一言尋ねた。「結城さん、出かけるんですか?」 「ああ、俺の事は待たなくていい。ドアロックはしないでいてくれ」 内海唯花は笑って「今まで結城さんを待っていたことはないですよ」 結城理仁は言葉に詰まった。 彼女のその言葉に一発殴られたような気分だった。 一発くらって、結城理仁は出かけていった。 彼は東家に行き東隼翔と酒を飲んだ。内海唯花のせいで本当に鬱々としていたのだ。 彼女のほうこそ耐えられず悲しむべきだろう。それなのに彼女は一寸も気にしていなかった。それと真逆に彼の心は塞いでいた。おそらく初めて他人から自分の存在をこのように軽く見られたからだろう。 その通り。内海唯花はちっとも彼が書いた容赦のない合意書など気にも留めていなかった。つまり彼のことなどどうでもいいのだ。 彼がこんなに格好良くても、彼女は全く彼を好きになるつもりはなかった。 彼がこんな
「唯花さん、どうしたんだ?」理仁は彼女の異様な様子に気づき、急いで近寄ってベッドの端に腰をおろした。そして手を伸ばして彼女の身体に当て心配そうに尋ねた。「具合が悪いの?」「お腹が痛いの」「お腹が?もしかして夜食を食べた時に、食べ過ぎで痛くなったの?」唯花は彼をうらめしそうに見ていた。「違うの?だったら、どうしてお腹が痛くなった?」唯花は体の向きを変えて彼に背を向けた。「あなたにはわからないわ。ちょっと横になって我慢してたら良くなるわよ」理仁は眉をひそめた。彼は立ち上がって、すぐに腰を曲げ唯花をベッドから抱き上げた。そして整った顔をこわばらせて言った。「俺には医学的なことはわからない。でも医者にならわかるだろう。病院に連れて行くよ。我慢なんかしちゃだめだ。もし何かおおごとにでもなったら、後悔してももう遅いだろ」「病院なんか行かなくていいの。私はその……月のものが来ただけよ。だからお腹が痛くなったの」理仁「……月のもの……あ、あー、わ、わかったよ」彼は急いで唯花をまたベッドに寝かせた。「どうして痛くなるんだ?」彼は女性が生理中にお腹が痛くなるということを知らなかった。彼の家には若い女の子はいないのだ。両親の世代には女性がいるが、若い女性には今まで接したことがない。そう、だから本気でこんなことは知らなかったのだ。唯花が生理になった当日は、彼は彼女にジンジャーティーを入れてあげたが、あれは彼が以前、父親が母親にそのようにしてあげていたのを見たからだった。それで女性は生理中にはジンジャーティーのようなものをよく飲むのだと理解していた。「たぶん昼間たくさん動いたし、寒かったし、それで痛くなったんだわ。またジンジャーティーでも作ってくれない?」「わかった。暫く耐えてくれ。すぐに作ってくるから」理仁はすぐにジンジャーティーを作りに行った。キッチンで彼は母親に電話をかけた。「理仁、お母さんは寝ているぞ。何か用があるなら明日またかけてくれ」電話に出たのは父親のほうだった。「父さん、母さんを起こしてくれないか?ちょっといくつか聞きたいことがあるんだ」「聞きたいことって、今じゃないとダメなのか?言っただろ、母さんはもう寝てるんだって。彼女を起こすな。何だ、どんな問題なんだ?父さんに言ってみろ、解決できるかも
俊介はかなり怒りを溜めていた。一方、唯花のほうは今日、かなりスッキリしているようだ。夫婦二人が姉の賃貸マンションから出て来た後、唯花はずっと笑顔だった。理仁は可笑しくなって彼女に言った。「そんなに豪快に笑ってないでよ。お腹が痛くなるよ」「笑いでお腹が痛くなるっていうなら、ウェルカムよ。今頃、佐々木俊介はあの家に帰ってる頃よ。あいつ家に着いてどんな反応をしたかしらね?絶対入る家を間違えたって思ってるわよ。あはははは、あいつの反応を想像しただけで、思わず笑いが込み上げてくるわ。またちょっと大笑いさせて、あはははははっ……」理仁も彼女につられて笑ってしまった。そして危うく街灯にぶつかってしまうところだった。驚いた彼は急いでハンドルを切り、それをなんとかかわした。唯花もそれに驚いて笑いを止めた。安全運転になってから唯花は言った。「理仁さん、あなたの運転技術は如何ほどなの?下手なら、今後は私が運転するわ。私運転は得意なのよ。カーレースだって問題ないわ」「俺は18歳の時に免許を取ったもう熟練者だぞ。さっきはちょっとした事故だ、笑いすぎて集中力が落ちてたんだよ」唯花「……まあいいわ。もう言わないから、運転に専念してちょうだい」彼女は後ろを向いて後部座席に座っているおばあさんを見た。おばあさんが寝てしまっているようだから、夫に注意した。「おばあちゃん、寝ちゃったみたい。音楽をちょっと小さくして」清水はまだ唯月の家にいて、一緒に帰ってきていないのだった。理仁は彼女の指示に従った。そして唯花はあくびをした。「私も眠くなってきちゃった」「もうすぐ家に着くよ」「ちょっと目を閉じてるから、家に着いたら起こしてね」「君は一度目を閉じたら朝までその目を覚まさないだろうが。寝ないで、あと十分くらいだから。おしゃべりしていよう」唯花は横目で彼を見た。「あなたとおしゃべりしたら、優しい神様ですら飽きて寝ちゃうかもしれないわよ」理仁「……」暫くして、彼は言った。「唯花さん、俺は大人になってから、君を除いて俺にそんなショックを与えられる人間は一人もいなかったよ」「私は事実を述べただけよ」唯花は座席にもたれかけ、携帯を取り出してショート動画を見始めた。ショート動画によってはとても面白いので、眠気も全部消えてしまった。そし
俊介「……こんなにあるゴミも片付けてねぇじゃねえか!」唯月は可笑しくなって笑って言った。「私が当時、内装を始めた時には同じようにゴミが散らかっていたじゃないの。それは私がお金を出してきれいに片付けて掃除してもらったのよ。その時に使ったお金もあんたは私にくれなかったじゃないの。今日、それも返してもらっただけよ」「人を雇って掃除してもらったとしても、いくら程度だ?そんなちっぽけな金額ですらネチネチ俺に言ってくるのかよ」「どうして言っちゃいけないの?あれは私のお金よ。私のお金は空から降ってきたものじゃあないのよ。どうしてあんたにあげないといけないのよ。一円たりともあんたに儲けさせたりするもんか」俊介「……」暫く経ってから、彼は悔しそうに歯ぎしりしながら言った。「てめぇ、そっちのほうが性根が腐ってやがる!」「私はただ私が使ったお金を返してもらっただけよ。そんなにひどいことしてないわ。あんたが当時、自分のお金で買った家と同じものにしてやっただけでしょ」俊介は怒りで力を込めて携帯を切ってしまった。そして、携帯を床に叩きつけようとしたが、莉奈がすぐにその携帯を奪いにいった。「これは私の携帯よ、壊さないでよね」「クッソ、ムカつくぜ!」俊介はひたすらその言葉を繰り返すだけで、成す術はなかった。唯月の言葉を借りて言えば、彼女はただ自分が内装に使ったお金を返してもらっただけだ。彼が買ったばかりの家はまだ内装工事が始まる前のものなのだから、誰を責めることができる?「俊介、これからどうするの?」莉奈も唯月は性根の腐った最低女だと思っていた。なるほど俊介が彼女を捨ててしまうわけだ。あんな毒女、今後一生お嫁には行けないだろう。莉奈は心の中で唯月を何万回も罵っていた。「こんな家、あなたと一緒に住めないわ」彼女は豪華な家に住みたいのだ。「私もマンションは大家さんに返しちゃったし、私たちこれからどこに住むの?」俊介はむしゃくしゃして自分の頭を掻きむしって、莉奈に言った。「ホテルに行こう。明日、部屋を探してとりあえずそこを借りるんだ。この家はまた内装工事をしよう。前は唯月の好みの内装だったことだしな。また内装工事するなら、俺らが好きなようにできるだろ。莉奈、君のところにはあといくらお金がある?」莉奈はすぐに返事をした。「
「ドタンッ」携帯が床に落ちた時、画面がひび割れてしまった。俊介は急いで屈んで携帯を拾い、携帯の画面が割れてしまったことなど気にする余裕もなく、再び部屋の中を照らして見渡してみた。莉奈も携帯を取り出して、フラッシュライトで彼と一緒に部屋の状況を確認するため照らしてみた。豪華な内装がないだけでなく、ただの鉄筋コンクリートの素建ての家屋にも負けている。「俊介、やっぱり私たち入る家を間違えてるんじゃないの?」莉奈はまだここは絶対に自分たちの家ではないと希望を持っていた。俊介は奥へと進みながら口を開いた。「そんなわけない。間違えて入ったんじゃない。それなら、この鍵じゃここは開かないはずだ。ここは俺の家だ。どうしてこんなことになってるんだ?うちの家電は?たったのこれだけしか残ってないのか?」俊介の顔がだんだんと暗い闇に染まっていった。彼は食卓の前に立った。このテーブルは彼がお金を出して買ったものだ。この時、頭の中であることが閃いた。俊介はようやく理解したのだ。唯月の仕業だ。「あのクッソ女ぁ!」彼はどういうことなのか思いつき、そう言葉を吐きだした。「あいつが俺の家をこんなにめちゃくちゃにしやがったんだ!」俊介がこの言葉を吐いた時、怒りが頂点に達していた。莉奈はすぐに口を開いた。「早く警察に通報してあの女を捕まえてもらいましょう。賠償請求するのよ。あなたの家をこんなふうにしてしまったんだから、どうしたって内装費用を要求しなくっちゃ」内装費?俊介は警察に通報しようと思っていたが、莉奈の言った内装費という言葉を聞いて、すぐにその考えを捨ててしまった。そして、警察に通報しようとしていたその手を止めた。「どうして通報しないの?まさかしたくないとでも?まだあの女に情があるから?」莉奈は彼が電話をかけたと思ったらすぐに切ってしまったのを見て、とても腹を立て、言葉も選ばず厳しく責めるような言い方をした。彼女は自分が借りていたあの部屋はもう契約を解消してしまったし、全てを片付けて彼と一緒にこの家に帰ってきたのだ。ここに着くまでは、豪華な部屋に住めると思っていて、家族のグループチャットにキラキラした自分を見せつけようと思っていたというのに。結果、目に入ってきたのは素建ての家屋にも遠く及ばない廃れ果てた家だったのだ
「私たちの家は何階にあるの?」「十六階だよ」俊介は莉奈のスーツケースを車から降ろし、それを引っ張って莉奈と一緒にマンションの中へと入っていった。エレベーターで、ある知り合いのご近所さんに出くわした。彼らはお互いに挨拶を交わし、そのご近所さんが言った。「佐々木さん、あなたの奥さん、午後たくさんの人を連れて来てお引っ越しだったんでしょ?どうしてまたここに戻ってきたんですか?」「彼女は自分の物を引っ越しで運んで行っただけですよ」相手は莉奈をちらりと見やり、どういう事情なのか理解したようだった。そして俊介に笑いかけて、そのまま去っていった。なるほど、この間佐々木さんが奥さんに包丁で街中を追い回されていたのは、つまり不倫していたからだったのか。夫婦二人はきっと離婚したのだろう。唯月が先に引っ越していって、俊介が後から綺麗な女性を連れて戻ってきたのだ。もし離婚していないなら、ここまで露骨なことはしないだろう。「さっきの人、何か知っているんじゃないの?」莉奈は不倫相手だから、なかなか堂々とできないものなのだ。俊介は片手でスーツケースを引き、もう片方の手を彼女の肩に回し彼女を引き寄せてエレベーターに入っていった。そして微笑んで言った。「今日の午後、俺が何しに行ったか忘れたのか?あの女と離婚したんだぞ。今はもう独身なんだ。君は正式な俺の彼女さ、あいつらが知ってもなんだって言うんだ?莉奈、俺たちはこれから正々堂々と一緒にいられる。赤の他人がどう言ったって気にすることはないさ」莉奈「……そうね、あなたは離婚したんだもの」彼女は今後一切、二度とこそこそとする必要はないのだ。エレベーターは彼ら二人を十六階へと運んでいった。「着いたよ」俊介は自分の家の玄関を指した。「あれだよ」莉奈は彼と一緒に歩いていった。俊介は預けてあった鍵をもらって、玄関の鍵を開けた。ドアを開くと部屋の中は真っ暗闇だった。彼は一瞬ポカンとしてしまった。以前なら、彼がいくら遅く帰ってきても、この家は遅く帰ってくる彼のためにポッと明りが灯っていたのだ。今、その明りには二度と火が灯ることはない。「とっても暗いわ、明りをつけて」莉奈は俊介と部屋の中へ入ると、俊介に電気をつけるように言った。俊介はいつものようにドアの後ろにあるスイッチ
賑やかだった午後は、暗くなってからいつもの静けさへと戻った。唯月は結婚当初、この家をとても大切に多くのお金を使って内装を仕上げた。それが今や、彼女が当時買った家電は全て持ち出してきてしまった。そして、新しく借りた部屋には置く場所がなかった。彼女は中からよく使うものだけ残し、他のものは妹の家にではなく、中古として売ることにした。それもまた過去との決別と言えるだろう。唯月が借りた部屋はまだ片付けが終わっていなかったので、料理を作るのはまだ無理で、彼女はみんなを連れてホテルで食事をすることにした。そして、その食事は彼女がまた自由な身に戻ったお祝いでもあった。唯月のほうが嬉しく過去と決別している頃、俊介のほうも忙しそうにしていた。夜九時に成瀬莉奈が借りているマンションへとやって来た。「莉奈、これだけなの?」俊介は莉奈がまとめた荷物はそんなに多くないと思い、彼女のほうへ行ってスーツケースを持ってあげて尋ねた。「もう片付けしたの?」「普段は一人暮らしだから、そんなに物は多くないのよ。全部片づけたわ。要らない物は全部捨てちゃったの」莉奈はお気に入りのかばんを手に持ち、それから寝る時に使うお気に入りの抱き枕を抱えて俊介と一緒に外に出た。「この部屋は契約を解消したわ」「もちろんそれでいいよ。俺の家のほうがここよりもずっと良いだろうし」「あの人はもう引っ越していったの?」莉奈は部屋の鍵をかけて、キーケースの中からその鍵だけ外し、下におりてから鍵をそこにいた人に手渡した。その人は大家の親戚なのだ。「もう大家さんには契約を解消すると伝えてあります。光熱費も支払いは済ませてありますから。おじさん、後は掃除だけです。部屋にまだ使える物がありますけど、それは置いたままにしています」つまり、その人に掃除に行って、彼女が要らなくなったまだ使える物を持っていってくれて構わないということだ。おじさんは鍵を受け取った後、彼の妻に掃除に行くよう言った。俊介はスーツケースを引いて莉奈と一緒に彼の車へと向かい、歩きながら言った。「暗くなる前に、あいつから連絡が来たんだ。もう引っ越したってさ」同時に唯月は彼女の銀行カードの口座番号も送っていた。今後、彼に陽の養育費をここに振り込んでもらうためだ。そして彼女は俊介のLINEと携帯番号を全て削
理仁は悟のことを好条件の揃った男じゃなかったら、彼女の親友に紹介するわけないと言っていた。確かに彼の話は信用できる。一方の悟は、来ても役に立てず、かなり残念だと思っていた。彼が明凛のほうを見た時、彼女はみんなが荷物を運ぶのを指揮していたが、悟が来たのに気づくと彼のもとへとやって来た。そして、とてもおおらかに挨拶をした。「九条さん、こんばんは」「牧野さん、こんばんは」悟は微笑んで、彼女に心配そうに尋ねた。「風邪は良くなりましたか?」「ええ。お気遣いありがとうございます」唯花はそっと理仁を引っ張ってその場を離れ、悟と明凛が二人きりで話せるように気を利かせた。そして、唯花はこっそりと夫を褒めた。「理仁さん、あなたのあの同僚さん、本当になかなかイイじゃない。彼も会社で管理職をしているの?あなた達がホテルから出て来た時、彼も一緒にいるのを見たのよ」「うん、あいつも管理職の一人だ。その中でも結構高い地位にいるから、みんな会社では恭しく彼に挨拶しているよ」そしてすぐに、彼は唯花の耳元で小声で言った。「悟は誰にも言うなって言ってたけど、俺たちは夫婦だから言っても問題ないだろう。彼は社長の側近なんだ。社長からかなり信頼されていて、会社の中では社長の次に地位の高い男だと言ってもいいぞ」唯花は目をパチパチさせた。「そんなにすごい人だったの?」理仁はいかにもそうだといった様子で頷いた。「彼は本当にすごいんだ。職場で悟の話題になったら、誰もが恐れ敬ってるぞ」唯花は再び悟に目を向けた。しかし、理仁は彼女の顔を自分のほうに向けさせ、素早く彼女の頬にキスをした。そして低い声で言った。「見なくていい、俺の方がカッコイイから」「彼って結城家の御曹司に最も近い人なんでしょ。だからよく見ておかなくちゃ。結城社長の身の回りの人がこんなにすごいんだったら、社長自身もきっとすごい人なんでしょうね。だから姫華も彼に夢中になって諦められなかったんだわ」理仁は姿勢を正して、落ち着いた声で言った。「悟みたいに優秀な男が心から補佐したいと思うような相手なんだから、結城社長はもちろん彼よりもすごいに決まってるさ」「お姉ちゃんのために佐々木俊介の不倫の証拠を集めてくれた人って、彼なんでしょう?」理仁「……」彼は九条悟が情報集めのプロだということを彼女
部屋の中から運び出せるものは全て運び出した後、そこに残っている佐々木俊介が買った物はあまり多くなかった。みんなはまた、せかせかと佐々木俊介が買った家電を部屋の入り口に置いて、それから内装の床や壁を剥がし始めた。電動ドリルの音や、壁を剥がす音、叩き壊す音が混ざりに混ざって大合唱していた。その音は上の階や階下の住人にかなり迷惑をかけるほどだった。唯月姉妹二人は申し訳ないと思って、急いで外に行ってフルーツを買い、上と下のお宅に配りに行き謝罪をし、暗くなる前には工事が終わることを伝えた。礼儀をもって姿勢を低くしてきた相手に対して誰も怒ることはないだろう。内海家の姉妹はそもそも上と下の住人とはよく知った仲で、フルーツを持って断りを入れに来たので、うるさいと思っても住人たちは暫くは我慢してくれた。家に子供がいる家庭はこの音に耐えられず、大人たちが子供を連れて散歩に出かけて行った。姉妹たちはまたたくさん食べ物を買ってきて、家の工事を請け負ってくれている人たちに配った。このような待遇を受けて、作業員たちはきびきびと作業を進めた。夕方になり、外せるものは全て外し、外せないものは全て壊し尽くした。「内海さん、出たごみはきれいに片付けますか?」ある人が唯月に尋ねた。唯月はぐるりと一度部屋を見渡して言った。「必要ありません。当初、内装工事を始めた時、かなりお金を使って綺麗に片付けてもらいましたから。これはあの人たちに自分で片付けてもらいます。私が当初、人にお願いして掃除してもらった時に払ったお金とこれでチャラになりますからね」唯花は部屋の中をしげしげと見て回った。壁の内装もきれいさっぱり剥がして、床もボロボロにした。全て壊し尽くしてしまった。姉が掃除する必要はないと言ったのだから、何もする必要はないだろう。これは佐々木俊介たちが自分で掃除すればいいのだ。「明凛、あなたの話を聞いてよかったわ。あなたの従兄に作業員を手配してもらって正解ね。プロの人たちだから、スピードが速いのはもちろん、仕上がりもとても満足いくものだわ」明凛は笑って言った。「彼らはこの道のプロだから、任せて間違いなかったわね」「彼らのお給料は従兄さんに全部計算してもらって、後から教えてちょうだい。お金をそっちに入金するから」明凛は頷いた。「もう従兄には言ってあ
「あ、あなたは、あの運転代行の方では?」唯花は七瀬に気づいて、とても意外そうな顔をした。七瀬は良い人そうにニカッと笑った。「旦那さんに名刺を渡して何かご用があれば声をおかけくださいと伝えてあったんです。仕事に見合うお給料がいただければ、私は何でもしますので」唯花は彼が運転代行をしていることを考え、代行運転の仕事も毎日あるわけじゃないから、アルバイトで他のことをやっているのだろうと思った。家でも暇を持て余して仕事をしていないのではないかと家族から疑われずに済むだろう。「お手数かけます」「いえいえ、お金をもらってやることですから」七瀬はそう言って、すぐに別の同僚と一緒にソファを持ち上げて運んでいった。明凛は何気なく彼女に尋ねた。「あの人、知り合い?」「うん、近所の人よ。何回か会ったことがあるの。普段は運転代行をしているらしくて、理仁さんが前二回酔って帰って来た時は彼が送ってくれたのよ。彼がアルバイトもしてるなんて知らなかったけどね。後で名刺でももらっておこう。今後何かお願いすることがあったら彼に連絡することにするわ。彼ってとても信頼できると思うから」陽のおもちゃを片付けていたおばあさんは、心の中で呟いていた。七瀬は理仁のボディーガードの一人だもの、もちろん信頼できる人間よ。人が多いと、作業があっという間に進んだ。みんなでせかせかと働いて、すぐに唯月がシールを貼った家電を外へと運び出した。唯月と陽の親子二人の荷物も外へと運び出した。「プルプルプル……」その時、唯花の携帯が鳴った。「理仁さん、今荷物を運び出しているところよ」唯花は夫がこの場に来て手伝えないが、すごく気にかけてくれていることを知っていて、電話に出てすぐ進捗状況を報告したのだった。理仁は落ち着いた声で言った。「何台かの荷台トラックを手配したんだ。きっともうすぐマンションの前に到着するはずだよ。唯花さんの電話番号を運転手に伝えておいたから、後で彼らに会って、引っ越し荷物を義姉さんの新しいマンションまで運んでもらってくれ。もし義姉さんのマンションに置く場所がなければ、とりあえずうちに荷物を置いておいていいから」彼らの家はとても広いし、物もそんなに多くないのだ。「うん、わかったわ。理仁さん、本当にいろいろ気を配ってくれるのね。私たちったら